2023/12/10
壮大にズッコケた、世間一般ではそういわれてしまっている共通点があります
ピンクレディは1978年ごろまでに、空前絶後の大ブームを巻き起こし
総理大臣の名は知らずともピンクレディは老若男女問わず知っているほどでした。
そして1979年に、ついにアメリカ合衆国に活動の拠点を移し、
「ピンクレディアンドジェフ」なるレギュラー番組を持つに至りました。
ウィキペディアの当該項目もあります。 熱烈なファンによる動画アップがありますので、第一回放送分を埋め込みます。
※残念ながら、動画は削除されてしまいました。
Pink Lady… and Jeff (1980) – Episode 1 (4K AI Enhanced)
しかしこの活躍は日本で殆ど知られることがなく、
人気凋落を止められずに1981年3月31日解散に至りました。
ただし、ピンクレディはアメリカで冠番組といえるレギュラー番組をもった唯一の日本人と言います。
のちの「ビッグ3」さえなしえなかった快挙です。
いっぽうのシンボリルドルフは
1985年有馬記念を制したのち、海外遠征を試みました。
しかし、初戦にサンルイレイステークスにおいて故障。
7頭だて6着の大敗を喫して失意のうちに帰国、種牡馬生活に入りました。
ウィキペディア「シンボリルドルフ」によれば海外遠征には行き違いがあったそうです。
馬主の和田共弘氏も競走馬の育成に精通した人間なだけに己の計画に自負があったようです。
1986年、この年シンボリルドルフは海外遠征に旅立つことになるが、和田と野平の計画は微妙に異なるものであった。和田はまず春にアメリカ遠征に行き、それから秋にヨーロッパ遠征に行くという考えだったが、それに対して野平の計画は、春に休養させてから秋にヨーロッパ遠征に行くというものだった。この点をめぐって和田と野平の間に確執が起こり、結局和田の計画が実行されるも遠征に野平厩舎の関係者は帯同せず、調教から何からを現地のスタッフに任せる事態となった。また国外戦に和田は野平を招待せず、やむなく野平は一般観戦ツアーに参加する形で現地へ移動した。
1986年 サンルイレイS ダハール (シンボリルドルフ ラストラン)